里山 それはどこか懐かしい響き 知っているようで 知らない
知らないようで 親しみのある場所
里山とは どこにある どんな場所なのか
田んぼに畑、小川やあぜ道、どうやら特別なものではなさそうです。でも、記憶や体験を語ってくれる人々のお話に、なぜか引き込まれていきます。さっそく、お一人目のお話をきいてみませんか!
岩間敏彦氏に聞く 第1回
岩間敏彦氏プロフィール
1960年神奈川県川崎市に生まれる。フォトライター。1989年頃から自治体等による都市緑化や公園緑地関連の広報業務に携わる。その当時、既に里山に関して先進的な取り組みを行っていた神奈川県とも交流を持ちはじめ、仕事を通じて里山への造詣を深める。里山をまるごと残した県立公園の雑木林を市民の手で守る活動に参加したり、里山を活用した県立公園の開設準備にも参画した。また、2008年に栃木県岩船町でスタートした里山再生計画にも参画している。そして現在は、全国の里山を飛び回る。現在NPO法人里山保全再生ネットワークの代表理事。
里山に魅せられて
―岩間さんの自然との関わりの原点とは、どのようなものですか。―
小学校4年生のときに川崎の下町から逗子に引っ越してきた時です。逗子って田んぼは少ないけど里山はだいぶ残っていて川崎と全然違うんです。川崎で見てきたのは、ドブに住むミジンコとかイトミミズとか・・・、そんな環境から逗子に引越したら、すぐ裏の山にマムシはいるわトンビは飛んでいるわ・・・と、知らない動物がいて、最初は生き物が怖かったですね。そんな私が、里山を強く意識するきっかけになったのは、写真を撮り始め、バイクの運転免許も取ってからです。ツーリングで里山地域によく行くようになりました。 そこで出会ったのが、金色に光り輝く田んぼでした。今でも思い出しますが、諏訪湖から杖突峠(ツエツキトウゲ)を超えて伊那谷に向かう谷間の道を初秋に走っていた時のことです。稲穂をたれた田が夕日を浴びて金色に輝いていたんです。まるで谷全体が黄金色に光っているようでした。それから里山にはまり込んでいきました。
―岩間さんにとって里山とはなんですか―
人生です、なんてね(笑)。五感が刺激されまくる場所ですね。そして、いつも新たな感動が待っています。たとえば視覚でいうと、同じ場所でも一瞬として同じ景色はないんです。太陽の上がり方で陰の付き方が違うし、田んぼに水が張っているときといないときなど、季節の変化も大きいんです。雨の日の里山もまた、綺麗ですね。露を宿している葉の色が、生命力を感じさせてくれます。
里山の今
―岩間さんが愛されている里山がだいぶ廃れていると聞きますが、どのくらいがそうなっているのでしょうか―
ほとんどではないでしょうか。すでに開発されてなくなっている場所や、耕作放棄地、竹が浸食している里山が目立ちます。また植生遷移(しょくせいせんい)が進んでしまっている里山もたくさんあります。人間が手を加えないと、その地域で育ちやすい木が育って、原始の姿に戻ろうとするんです。
―植生遷移というのはよくないことですか―
良い面と好ましくない面があります。いい面は、メンテナンスフリーの森になることです。例えば関東では、人が手を入れなくなると、常緑樹が優先する森になります。一年中緑が絶えないので、緑化という意味では高い効果があります。横浜国大名誉教授の宮脇先生は、地元本来の植物の苗を植えて、お互いのせり上がり効果でどんどん成長させて、短時間で森を作るという取り組みをされていますよね。そういう森では、土地になじんだ木が育つので、「1000年の森」などと呼ばれています。
好ましくない面は、植物や生物の類が減ることですね。常緑樹林は一年中木の葉に覆われるので、暗い林でも育つことができる植物しか生きていけません。それに対して、雑木林を覆う落葉樹の場合は、秋から春先に葉を落としていますよね。そのおかげで林床までたっぷり陽がさすので、様々な植物が芽生えることができます。植物が豊かだと、それらを食草にしている昆虫も暮らせるので、生物多様性が豊かになります。
日本人は、薪や炭の原木などを得続けるために、落葉樹林の雑木林を守ってきました。このような人間の営みが結果的に植生遷移を防ぎ、色々な植物、昆虫が暮らせる環境をつくってきました。こんなふうに、生物多様性を守るために人間の果たしている役割は意外と大きいんです。自然界では人間だけが大きな力を持ち、どんどんと環境破壊を進めてしまいましたが、その人間が唯一いいことをしたといえるのが里山を作ったことだと思うほどです。
―それが今は人口が都会に集中してしまい、そこには自然や常緑樹さえ少なくて、砂漠のような大地になっている。一方で里山には人がいなくて暗く、荒れ果てた森になっている、これはアンバランスですね―
そうですね。せっかく生物多様性が豊かな場所を作って、生物と折り合いをつけて生きられるようないい環境ができたというのに、人間が手放してしまいました。石油などが普及したとたん、「雑木林なんてなくても生きて行ける」と思い始めたのがアンバランスな環境が生まれた大きな理由だと思います。
―日本はこの狭いこの国土のなかで、自然にかかわることで エネルギーが得られる、循環する仕組みを作ってきた民族なのに、なぜ雑木林を放棄して、石油に頼り始めたのでしょうか―
これは世界的な潮流でしょうね。薪や炭は、薪作り、炭焼き、火おこしなど、手間がかかります。でも、石油や天然ガスなどは、スイッチ一つで利用できます。やはり人間は、楽な方へ走ってしまいますよね。昭和30年代から始まったこのエネルギー転換によって、私たちと自然との距離も遠ざかり始めたと思っています。
2011年3月11日の震災後は、「当たり前」にあるものなど実は1つもないのだと感じています。エネルギーのことを考えると気も重くなりますが、私たちの過去はそれに頼っていなかったことを知れば勇気も湧いてきます。里山は、私たちに様々なことを見直すようにと教えてくれているようです。
NPO法人 里山保全再生ネットワーク代表 岩間敏彦氏に聞く・・・1 おわり
☆ 岩間氏インタビュー 第2回目はこちら!