里山から・・・・筑北

筑北村(長野県)より

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筑北村の南、国道303号沿い風越峠展望エリアから望む北アルプス。この山の向こうは富山県です。(2013.7.20)



 私たち東京洋紙店は、日本の里山を元気にする印刷用紙「里山物語」の販売にあたり、私たち自身が里山を体験して理解し、伝えていくことが大切と考えています。

 実際に里山へと足を運ぶと、自然と対話しながら安心な食べ物を自給する豊かな暮らしがあることに気付きます。家族、地域ぐるみで、生活のあらゆる必需品を創り出す心のゆとりが、独特の「里山時間」を創り出していることも感じます。


里山と和紙

 農閑期の副業として農家で行われていた紙漉きもまた、「里山時間」を物語るものの一つなのではないでしょうか。

 以前、宇都宮大学・里山科学センターの髙橋先生から、「歴史をひもといていくと、和紙が里山から江戸へ盛んに運ばれていた」という話をお聞きしたことをきっかけに、「里山と紙」との結びつきをより強く意識するようになりました。
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滝沢さん宅の脇を流れる川の土手には、今も楮が!!

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滝沢清さん

 そんな折、長野県の東筑摩郡筑北村で約40年前まで紙漉きが行われていたことを知り、役場からのご紹介で、かつて和紙を漉いていたお宅を訪ねました。

 お話をお聞きしたのは、筑北村に先祖代々住み続けている滝沢清さんと娘の里江さん。当時を思い出しながら、紙漉きについて教えてくださいました。

農閑期の貴重な現金収入を生んでいた紙漉き

 「この地域では昔からどこの家でも、何らかの紙を漉いていたんですよ。薪炭に加え、農閑期に漉く紙が貴重な現金収入源だったんです」と清さん。「鼻紙」(現在のティッシュペーパーの用途で使われていた紙) 、障子紙など、様々な紙が漉かれていたそうです。

 清さんの家で漉いていたのは障子紙でした。ガラスなどない時代、障子紙を貼った障子が建具の主役でした。しかし、囲炉裏の煤ですぐに真っ黒になる上に、大半の家が子沢山なために破かれることが多く、1年に一度は張り替えられていたそうです。



まるでお祭りのようだった「かず蒸かし」

P6100295.JPGこの地域で障子紙の原料にしていたのは、“かずの木”と呼ばれていた楮(コウゾ)です。紙を漉く家に持っていくと換金できたり、障子紙などと交換してもらえたりするので、ほとんどの家が畑の隅に植えていたそうです。

 紙漉きは楮を窯で蒸す「かず蒸かし」という作業から始まります。清さんの家の裏には、「かず蒸かし」に使われていた大きな窯が今も置かれていました。お味噌を煮る(つくる)のにも、使われていたそうです。

 山から拾ってきた柴を燃料にして窯で楮を蒸かし、その後に皮をはぐのですが、たくさんの楮を処理する必要があったため、夜なべ仕事になりました。よくみんなで空を見上げ、「三ツ星様(オリオン座)があんな所へ行っちゃったよ」と言っていたそうです。また、大勢の人の力が必要なため、地域ぐるみの作業となりました。

 「かず蒸かし」は、子どもたちにとっては、まるでお祭りのようだったそうです。はいだ楮の皮で弓矢をつくったり、鳥を追いかけたりと、子どもたちは大喜びした」と清さんは語ります。里江さんも「小さいときからご近所と一緒に、一生懸命に楮の皮をはぎました」と言います。当時の様子を思い出すお二人はニコニコと楽しそう。地域に住む幅広い世代の人々が楽しみながら作業をしていた光景を、容易に想像することができました。



P6100292.JPG楮の皮をはぐ様子 当時の貴重な写真 きれいな水、「凍みる」気候が紙漉きの伝統を生んだ

 紙漉きはきれいな水を必要とするため、清流が流れる日本の各地に伝統が残ります。清さんの家のすぐ裏にも、四阿山(あずまやさん)を源流とする麻績川(おみがわ)の支流、安坂川という川が流れていました。

 「この地域では水が凍みる(凍る)んですよ。そのことも紙漉きには大事です」と話す清さん。「かず蒸かし」の後、熱いうちに楮の皮をはぎますが、それでも黒い皮が残ります。ところが、皮をはいだ後の楮を昼の間、水に漬けておき、夕方に引き上げて広げておくと、凍った楮から残っていた皮が浮き上がってくるのだそうです。「水が凍みない地域で楮の皮をはぐ作業はなかなか大変だと思います」とも教えてくださいました。

 この後、皮をはいだ楮を苛性ソーダなどで煮たり、水を張った田んぼでさらしたりして原料にするのですが、白くて美しい障子紙を漉くには、「傷取り」という作業も必要でした。川のすぐそばにつくった小さな池に原料を入れて、まだ残っている傷(傷のような」部分やチリ)を手作業で取る工程です。ワラで編んだかまくらのような小屋をつくり、火鉢や、鉄鍋に炭を入れてぼろ布でくるんだものなどで暖を取ったものの、出入り口や明かり取りの窓が必要だったため、とても寒かったそうです。里江さんも「この作業が一番きつかったかしら」と言います。一方で、もちを火鉢で焼くといった楽しみもあったようです。

 「傷取り」の後、何度も叩いた原料を漉き舟に入れて、トロロアオイという植物からつくったのりを加えると、いよいよ紙漉きです。このように大変な時間と手間をかけて漉かれた障子紙は、電車で三駅先の稲荷山という町にあった紙問屋や、集落を訪ねてきた紙問屋に卸していたそうです。

 最後に紙漉きはどうやって教わったのかをお聞きすると、清さんは「紙を漉く家庭に生まれれば、自然と手伝い、時間とともに紙漉きを覚えましたよ。」と答えてくださいました。里山で暮らす人々の精神と文化は、特に意識することなく、日々の営みを通じて受け継がれていくものということなのでしょう。

 伝統的な紙漉きは、原料の植物を蒸す、煮る、傷を取る、さらす、紙を漉くといった大半の工程で水を使います。産業化とともに和紙から洋紙へと需要が変化しましたが、豊かできれいな水が欠かせない点は、共通しています。各地に残る紙漉きの伝統からも、洋紙生産からも、里山の気候風土を活かしてきた人々の知恵を見ることができると感じました。
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 取材後、清さんは家の裏手に案内してくださいました。安坂川の河畔には「傷取り」をする小屋が建てられていた場所が残り、近くではやわらかそうな色の葉が風にそよいでいました。

 「これが楮です」と、河畔の木を引き寄せる清さん。私たちに見せようと、刈り取らずに残しておいてくださったのです。

 私が一本切り離そうとすると、繊維が丈夫なためかなかなか切れません。ところが長年にわたって楮に触れてきた清さんは、見事な手つきで素早く切り離しました。

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 1本の楮から採れる繊維の量はごくわずか。しかも、楮の調達から紙を漉くまで、たくさんの人々の手作業が必要です。漉き上がった白くて均質な和紙を手にした人々は、どのような気持ちだったのかと想像したくなりました。

 というのも、40年以上も前に漉かれた和紙をお土産にいただいたからです。歳月を経ているのに真っ白で、とても心地いい手触りでした。この姿形になるまで、清さんをはじめ、ご近所の方々など、多くの方が関わっていることを知り、和紙一枚の重みを感じたのです。同時に手間や時間を惜しまずに、じっくりと紙を漉く和紙の文化は、里山の魅力の一つだと思いました。

 滝沢清さん、里江さん、大切な当時漉いた和紙のお土産まで頂き、また長い時間お付き合い頂きありがとうございました。たいへんよい勉強になりました。頂戴しましたお話は、今後の私たちの中で生かしていきたいと思います。

御礼

滝沢清さん、里江さん、御家族の皆様、この度はお忙しい中、取材に御協力頂き誠にありがとうございました。

また、この機会を実現に導いてくださいました筑北村 生涯学習課の皆様にも合わせて御礼申し上げます。

清さんのお話を直接うかがうことができたので、「里山と和紙」その関係を改めて学び、当時をしっかりと感じ取る

ことができました。心より感謝いたしております。葉の色付く秋の頃、また筑北村を訪ねてみたいと思っています。

その際は、是非お会いしたく、お相手いただければ幸いです。まだまだ、暑い日が続きます。ご協力頂きました

皆様のご健康と、今後の筑北村のご発展を心よりお祈り申し上げます。

みつまさくん発表会と筑北 023.jpg風越峠に咲く紫陽花